薬師寺見聞録

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薬師寺(やくしじ)は奈良県奈良市西ノ京町、近鉄橿原(かしはら)線西ノ京駅から徒歩2分の距離にあります。観光バスも大量に駐車できる巨大駐車場があるので、車で行っても困ることはないでしょう。ちなみに、そばを流れる秋篠川沿いには奈良・西の京・斑鳩自転車道という自転車道路もありますから、自転車でまわるというのも気分良くてお勧めです。

法相宗(ほっそうしゅう)大本山、薬師寺。奈良県奈良市西ノ京町457。拝観時間は8時30分から5時まで。拝観料は個人の場合で大人及び大学生が500円、高校生及び中学生が400円、小学生が200円となっています。

ちなみに、個人的には薬師寺は伽藍(がらん)の中に入って見るよりも少し離れた場所から金堂(こんどう)の屋根と西塔(さいとう)そして東塔(とうとう)の姿を見るのが一番好きだったりします。特に父との旅行の時に1泊した近くのペンションのベランダから見た夕日をバックにした東塔と西塔の姿には子供ながら感動を覚えました。

創建は天武9年(680)。時の天武天皇が菟野(うの)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って11月12日に発願。その後、持統天皇が持統11年(697)に本尊の開眼を行います。元々は飛鳥の藤原京に建立されましたが、平城京遷都に伴い、現在の地に移されました。ちなみに、元の場所は現在本薬師寺跡となっています。平城京遷都から10年で48もの寺院が建立されたと言われていますが、薬師寺はその中心的な寺院となっています。

薬師寺式伽藍

薬師寺は薬師寺式伽藍(がらん)配置と呼ばれる伽藍形式に加え、その周りにも多くの建物が立ち並ぶ大寺院で東大寺や興福寺などとともに南都七大寺の1つに数えられています。しかし、天延元年(973)の火災で金堂と東西両塔以外のすべての建築物を焼失。その後も数多くの火災に見舞われています。その中でも享禄元年(1528)の兵火による火災では現在も残る東塔以外のすべての建造物を焼失してしまいました。

金堂

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昭和51年(1976)に創建当時の様相で再建された金堂には国宝に指定されている本尊の薬師如来像と日光菩薩像と月光菩薩(がっこうぼさつ)像という両脇侍がおられます。この薬師三尊像は数々の火災により本来は金ぴかだった肌が黒光りするようになっています。が、それがまたなんともいえずかっこいいんです。まさに日本の仏教美術の代表的な存在だと思います。薬師寺は少し離れた所から見るのがいいと言いましたが、この仏様を見れないのでは、外から見るだけで済ませるわけにはいかないと思います。暗い建物の奥にかすかにしか見えない仏様が多い中でここ薬師寺の三尊像はじっくりと拝見することができます。美しいお姿をぜひゆっくりとじっくりと見てもらえたらいいなと思います。

国宝の薬師如来は高さは2メートル54センチで銅で作られています。輪相(りんそう)と呼ばれる足の裏に掘られた紋様は悟りを開いた仏の証しで手のひらにも同様の物があります。写実的な仏像彫刻は唐の影響とされています。

薬師如来の向かって右側にあるのが国宝の日光菩薩。高さは3メートル14センチ。唐の若い女性を想像して作られたという説もあるほどの美しさです。浄瑠璃世界という浄土に薬師三尊は住むと言われていますが、その美しさを体現しているのが日光菩薩と言われています。薬師如来の向かって左側に国宝の月光(がっこう)菩薩があります。人の姿を写実的に表現した仏像の最高峰と言われています。

3尊合わせておよそ18トンという重さです。いつ作られたか定かではありません。

2008年3月9日の朝。日本通運により日光菩薩と月光菩薩は東京国立博物館へ旅立ちました。

金堂の近くには釈迦の足跡といわれる仏足石(ぶっそくせき)があります。釈迦は土踏まずがなかったそうですね。

さて金堂ですが、創建当時の様相といいながら、内側はなんとコンクリートで固められています。これは堂内に国宝が安置されているため、法律で木造のみの建築は不許可となっているための処置です。しかし、再建からわずかに25年あまり。内側のコンクリートのはがれ具合と外側の檜のしっかりとした姿を見るとどちらの方が正しかったのかその答えが早くも出てしまっている、そんな気がします。…すぐ近くには1,300年の前例・実績がありますよね。

竜宮造りと呼ばれる金堂の薬師三尊の上には昭和43年以降の写経が納められている。1000年は持つと言われている和紙に書かれている。今では730万巻を超えている。

東塔

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金堂や講堂そして西塔と伽藍の多くが近世に再建されたものばかりの中、国宝にも指定されている東塔だけは天平2年(730)3月29日と言われる創建から数々の災難から辛くも逃れそして1300年以上という長い時間日本人を見つめ続けてきました。白鳳(はくほう)文化の象徴とも言われる建造物です。高さは33メートル60センチ。各層に裳階(もこし)とよばれる屋根のような飾りが付いているので、一見すると六重塔のようにも見えますが、三重塔なんです。地上から見るのは困難ですが、飛天(ひてん)をあしらった水煙(すいえん)も有名ですね。フェノロサをして「凍れる音楽」と呼ばれるのも納得の風格です。また、薬師寺東塔は1998年11月に古都奈良の文化財の1つとして世界遺産に登録。法隆寺に次ぎ世界で2番目に古い木造建築物でもあります。

50年に渡って薬師寺を研究している京都大学工学部。 現在の中心は西澤講師の研究室。 730年建築の東塔と1981年の西塔。 新旧の塔を比較出来るのは薬師寺だけ。 東塔の心柱は地上から18メートル部分に傷があり、 添木が当てられている。

西塔

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1300年の風格漂う東塔と対で建っていながら、きらびやかな雰囲気で白鳳時代を彷彿とさせる西塔は他の金堂や回廊などと共に昭和56年(1981)に法隆寺(ほうりゅうじ)宮大工(みやだいく)の西岡常一(にしおかつねかず)棟梁(とうりょう)らによって再建されたものです。

実は再建された西塔は東塔よりも1.7メートル高く造られています。これは創建当時そのままを再現した結果で、今から500年も経てば東塔と同じ位の高さまで沈むそうです。そこまで計算して造ったそうです。1000年生きた木はしっかりと造ってやれば材になってから更に1000年以上生き続けるそうです。

大講堂

平成15(2003)年3月21日に奈良・西ノ京にある薬師寺(松久保秀胤管主)において大講堂の落慶法要(らっけいほうよう)が営まれました。

大講堂は正面が41メートル、奥行き20メートル、高さ17メートル。
創建当時の建物は東塔しか残っていなかった伽藍は昭和45(1970)年に再建作業がはじまって以来およそ35年の歳月をかけ昭和51(1976)年の金堂、1981年の西塔、1984年の中門に引き続き今回大講堂が完成したことで約1300年前の白鳳伽藍(はくほうがらん)が現代に蘇りました。

落慶法要は3月23日まで続けられます。そして3月30日から4月4日にかけて落慶慶讃大法要を開催。その後4月8日から一般に公開されます。

大講堂の再建費用は約50億円。その多くを般若心経の写経でまかないました。
本来はすべて白鳳時代の技術での再建を目指していましたが、主に悪法上の様々な問題があり、鉄枠を土塀だ隠すなどの処理が一部で施されています。

西岡常一棟梁、高田好胤管長。故人2人の情熱は死後も冷めることなく無事に薬師寺式伽藍と呼ばれる白鳳時代の姿が平成の御世に再び現れた事は何事にも変えがたい喜びです。

しかし昭和から平成の御世にかけて行われた弊害としてコンクリートや鉄と本来はないものを建物の中で使わなければならないという問題があることは残念です。コンクリートがあるが為にかえって建物の寿命を短くしている。どうしてもそんな気がします。そしてその1つの兆候として金堂の壁が上げられると思います。表面がぼろぼろと崩れはじめている金堂の上部の壁。その姿を見てコンクリートを主張していた方々はどのように思っているのかなと思います。果たして1000年後、どのような結果になっているのでしょうか。少なくとも東塔はコンクリートなどを使わなくても1300年の間立ち続けていますよね。

薬師寺再建

この西岡棟梁はボクが最も尊敬というか感銘を受けた人の一人です。ボクはこの人の事を知ってから物事を1000年という単位で考えることが多くなりました。

奈良を中心に日本には1000年以上前の建造物が相当数ありますが、そのほとんどは木それも檜(ひのき)が使われています。日本ほど建築に木をうまく使っていた国はないとボクは思っています。宮大工にとっての疑問の答はすべて法隆寺にあるそうです。

再建用の檜の用材を手に入れるために西岡棟梁は自ら台湾まで出掛け、そして山を見たそうです。宮大工の口伝の一つに「木を買わずに、山を買え」という言葉があるそうです。木にはそれぞれ癖がある。その癖を巧く生かして使う。そういう技術を古来の職人は持っていたそうです。

西岡棟梁は平成7年(1995)に86歳で亡くなる前に薬師寺伽藍再建に関わる全ての設計図を書き上げています。昭和45年(1970)に金堂からはじまった薬師寺の再建事業は西岡棟梁の設計図の基、平成14年(2002)にすべて終了する予定です。

1300年という長い時間、日本人を見守り、生き続けてきた東塔と、その1300年前の人々の知恵に学び現代にその匠の技を甦らせ、復活した西塔や金堂といった東塔の仲間達。日本人とはどういうものなのか。それを考えさせてくれる場所だと思います。今から1000年後、東塔と西塔が同じ高さでちゃんとたっていたら素晴らしいなと思います。

平成11年(1999)4月5日の午後7時から放送されたテレビ東京の日本の古都・春紀行という番組の中で、現在再建中の大講堂の工事現場の見学を月曜日と金曜日に1人2500円、30人以上の団体で要予約で受け付けているそうです。平成7年から始まった再建工事は平成14年(2002)に完成の予定です。使われる瓦は73600枚で、般若心経の1文字を書く事が出来ます。

代々受け継がれてきた法隆寺宮大工も西岡家が最後の家となり、そして常一氏が亡くなったことによりその歴史の幕を閉じました。しかし、その考え方と技術は薬師寺再建などを通じて次世代へ受け継がれています。ただ、この技術の継承は常に断絶の危険を持ち続けています。でも、それはそれでかまわないのです。技の継承が絶えてもかまわない、本物さえ残っていれば。

昭和42年、第127代薬師寺管長に高田好胤(こういん)氏が就任。以来薬師寺400年の悲願である金堂再建(さいこん)に打ち込みます。享禄元年(1528)の兵火による火災により金堂が焼失して以来400年、薬師三尊像は仮金堂に安置されてきました。当時仮金堂は雨漏りがひどく、法要の際は傘が必要だったほどだったそうです。再建にかかる費用は当時の金額で10億円。企業からの寄付は断り、納経料1巻1000円の般若信教の写経勧進を中心に金策に奔走しました。テレビに数多く出演し、1年間で200ヶ所を超える公演をこなしたそうです。その結果タレント坊主と叩かれる事もありますが、自分の身1つ叩かれて済むのならと古都の息吹を守りたいという自分の信念を貫きました。
氏は大正13年生まれの氏は小学5年生で薬師寺に入門、橋本疑胤管主の元に学びます。昭和24年に副住職となり、昭和42年に管主に就任。昭和43年には法相宗の管長にも就職しています。平成10年(1998)6月21日、永眠。享年74歳。

玄奘三蔵院

2001年1月1日未明、画家平山郁夫氏が約30年をかけて書き上げた玄奘三蔵の天竺への旅を描いた壁画が完成し、薬師寺内の玄奘三蔵院にて公開されました。

新世紀の幕開けの際に玄奘三蔵院の事が多くのテレビで放映されたのを受けて、薬師寺を訪れる人はとても増えているそうです。しかし、玄奘三蔵院だけを訪れてご本尊を拝まずに帰る方が多いという話しを聞きました。これは大変もったいない話しです。ぜひ金堂に足を運び薬師三尊にお会いになり、東塔や西塔にも目を向けてみることをお薦めします。

薬師寺年表

元号西暦内容
天武9年6801112天武天皇が薬師寺建立を発願
享禄元年1528 兵火により東塔を除く伽藍のほとんどが焼失
昭和46年 0403金堂起工式
昭和51年19760401金堂完成披露
昭和56年1981西塔再建
昭和59年1984中門再建
平成7年1995 西岡常一棟梁永眠。享年86歳
平成10年19860621高田好胤住職永眠。享年74歳
平成12年20001017NHKのプロジェクトXで金堂再建について放映される
平成13年20010101玄奘三蔵院にて壁画公開
平成15年20030321大講堂の落慶法要

関連書籍

木のいのち木のこころ〈天〉
西岡棟梁による木組みについて書かれている本。
木のいのち木のこころ 地
西岡棟梁の弟子、小川三夫さんによる本。
木に学べ―法隆寺・薬師寺の美
法隆寺宮大工としての西岡棟梁の言葉。

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